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提供 / 内灘町民族資料館「風と砂の館」

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明治43年(1910年)3月17日金沢市木ノ新保の五反田家に生まれ、鞍家の養子となるが、戦前は元の姓、五反田を名乗っていた。

 

新聞配達、雑誌発行、化粧品販売、贈進物用マッチ販売など様々な職を遍歴するかたわら、新俳句運動「仔馬会」を興し、新劇運動で「風船座」「前衛劇場」「粟ケ崎小劇場」児童演劇「劇団ドウゲキ」に参加する。

昭和4年、19歳の時に映画の宣伝物制作の手腕を買われて第二菊水倶楽部の企画宣伝部長となる。劇場に勤めながら、映画や金沢市内の喫茶店、粟崎遊園のレビューなどの話題の載せた「モダン金澤」を発刊。

 

昭和8年8月8日に喫茶店「モナミ」を開業。開店資金がないので身の回りのものを売って三百円の資金をつくり、小学校時代から音楽が好きで毎月少ない給与から1枚づつ買い込んだレコードをもとに店を開いた。

「モナミ」という名前は当時の喫茶店ではよくある名前だった。

開業時は金沢に喫茶店が鞍の店を入れて3軒しかなく、まだ喫茶店がどう言うものが知られていなかったので、カフェーを開いたと思われて白眼視されるありさまだった。その後、四高生が常連となり、彼らと一緒に音楽や映画の話をしたり、レコードを買うときにも彼らの意見を聞いたと鞍は語っている。

「モナミ」は夏の一時期に粟ヶ崎遊園に出張出店していた。

戦時中(昭和18年、19年)は鞍らは自身のレコードを持って軍需工場へ「名曲慰問レコード・コンサート」出張を行なったようである。

「モダン金沢」の他にも戦前・戦後にかけて「街のファン」「洋画フアン」などのタウン誌、映画雑誌も発行する。

 

後に「モナミ」は「金沢喫茶村」へと発展し、1階は喫茶店、2階は事務所とレコードなどの資料館、3階は「モザール」(モーツアルトのフランス語読み)というホールになっており、ここでは鞍さん自身の解説で試聴会、絵の展覧会、朗読会、演劇の座談会などを開いていた。また、北陸喫茶珈琲学院を主催し多くの後進を育てた。

モナミでは鞍は細長い店の奥まったところにいて、そこでクラシックのレコードをかけていたようである。

 

彼の死後にレコード、蓄音機のコレクションは石川県立歴史博物館に寄贈された。