涛々園

 涛々園の開園は1925年(大正14年)10月25日。平澤嘉太郎の粟崎遊園に対抗して金石電気鉄道が建てたものである。 粟崎遊園の約6万坪の広さに比べ、涛々園は約4500坪と規模で比べるとかなり小さかったが、施設は千人閣、大潮湯(大浴場)、食堂、貸室、写真部、劇場(余興場)、旅館部、児童運動場、海水浴場などがあった。特に貸室、旅館からは海が眺められ、新鮮な魚が食べらるというのが売りであった。毎年、高等学校相撲金沢大会の会場となっており、全国中等学校野球大会も開催された。 

 涛々園にも専属の劇団組織があり、のちにレビューが中心となった粟崎遊園と比べると涛々園の演目は新劇や新派の比重が高かった。昭和7年金沢市主催の「産業と観光の博覧会」開催時期には「銭屋五兵衛遺品展覧会」を開き、劇場では銭屋五兵衛劇が常時上演されていた。劇場を金沢市内の劇団に貸し出ししていた記録もある。 粟崎遊園と同じく夏は海水浴場で集客を行なっていたが、涛々園の経営の柱は旅館、温泉、料理がメインだったようである。

 1938年(昭和13年)9月に休園したとされる。1943年10月に金石電気鉄道は戦時統合のため北陸鉄道に合併された。その時に涛々園は不二越鋼材に売却され、その後は大阪軽合金の工員寮となる。戦後の昭和21年4月に新日本産業(大阪軽合金から名称変更)の手によって再開された。戦前と同じように再び高等学校相撲金沢大会の会場となり、昭和22年の10月30日~11月3日に石川県内で行われた国体の第2回大会では涛々園はボクシング会場にもなっている。1951年(昭和26年)6月に金沢市堅町の須田太吉によって買い取られたが、11月に経営不振で休業。1952年(昭和27年)には売りに出され、その後建物は撤去、解体され、跡地には金石町小学校が建っている。