粟崎遊園と近現代史3

・遊園と戦争

 遊園の活況とは裏腹に世間では二二六事件や盧溝橋事件が起こり、戦争の影が身近に忍び寄ってくる。盧溝橋事件から始まった日中戦争は予想に反して長引き、総力戦の様相を呈してきた。1938年(昭和13年)には国家総動員法が成立施行され、徐々に木炭などの生活必需品や食料などの配給制が始まり、国内でも戦時統制が厳しくなってきた。戦争の長期化は他国の介入を招き、次第にアメリカ、イギリスとの戦争も避けられない状況になってきた。遊園の公演内容も「軍国ショウ」1940年(昭和15年)、「軍国友情哀話 甦生る魂」(同年)など戦時色の強い内容のものが多くなってくる。

 1941年(昭和16年)のパンフレットには「あひる艦隊」、「あきれたぼういず」や「ミスワカナ・玉松一郎」の公演予告がある。1937年(昭和12年)の「あきれたぼういず」の結成以降、音楽の合間にギャグやコントを挟むスタイルのバンドが大流行した。これは戦後のクレイジーキャッツやドリフターズなどのコミックバンドに繋がる流れである。「あきれたぼういず」はその始めを作ったバンドであり、「あひる艦隊」もあきれたぼういずと同じく人気のあったバンドである。「ミスワカナ・玉松一郎」も当時人気のあった夫婦漫才コンビであり、この1941年の粟崎遊園での公演はかなり豪華な内容である。ただ、この公演時の「あきれたぼういず」のオリジナルメンバーは芝利英だけであった。1943年(昭和18年)は関西新派による建艦資金献徳特別公演と題した公演を行った。

 現在残っている粟崎遊園資料からすると1943年(昭和18年)8月31日を最後に閉館したとなっている。日中戦争中、太平洋戦争中でも遊園は春から夏の時期だけオープンしていたので、当時は来年もまた開園する予定だったようである。次第に厳しくなる戦局に対応して翌年1944年(昭和19年)2月29日に政府が「決戦非常措置要網」を閣議決定。その後に発表された「高級享楽停止ニ関スル具体策要網」では高級料理店・飲食・接待業の休業・転廃、劇場や映画館の閉鎖と従業員の時局産業への転業を推奨され、転廃業者への経済的支援も打ち出した。そして、実際に東京の劇場では歌舞伎座、東京劇場、新橋演舞場、東京宝塚劇場、帝国座、明治座、国際劇場、日本劇場、大阪では北野劇場、中座、角座、梅田映画劇場、宝塚市の宝塚大劇場などが指定され、閉鎖されることになった。国際劇場や日本劇場は風船爆弾の製造工場となったり、公会堂や官庁舎などに転用されることになったが、一部はその後劇場として再開された。

・遊園の転用と売却

 戦争が長引くにつれて映画、演劇、音楽を職にしている俳優や楽団、スタッフらも召集される者が多くなり、漫才コンビやバンドのメンバー入れ替え、解散などが起こった。1944年に遊園は軍の兵舎、訓練場として使用された。涛々園はすでに閉鎖されており、東京や大阪の遊園地、劇場は閉鎖もしくは開店休業の施設が多く、食糧難もあって農作地に転用されるところもあった。

 太平洋戦線でサイパンがアメリカの手に落ち、そこから飛び立つB29爆撃機によって本土空襲が本格化すると、金沢市も空襲の恐れが出てきた。その状況下では集客も難しく、人材も不足して、運営としても厳しかっのだろう。しかしながら、東京のムーラン・ルージュ新宿座は終戦間近まで公演を続けており、公演中に空襲警報が出たら観客、俳優、スタッフ皆で防空壕に逃げ込み、警報が解除されたら公演を続けたという逸話も残っている。日中戦争の頃から金沢でも防空演習は頻繁に行われていたが、周辺の富山、高岡、福井が受けると、次は金沢かと思われていた。

 軍の施設となった遊園の状況は夭折の画家・前田美千雄が妻に送った絵手紙に残っている。画家・俳人であった前田美千雄は2度目の招集を受け、1944年1月15日に粟崎に設営された部隊に入隊した。彼は軍隊生活のかたわら、毎日のように妻へ俳句と絵を書き添えた絵手紙を送っていた。絵手紙には粟崎海岸や雑木林、鳥のさえずり、河北潟の風景などの日常風景と共に、生活していた粟崎遊園の施設も描かれている。その後、前田の所属部隊は4月中にはフィリピンへ移動した。

 粟崎遊園は1944年3月29日に日本タイプライターの疎開工場となった。既に涛々園は1943年(昭和18年)10月金石電気鉄道が北陸鉄道に吸収合併された際、不二越に売却されている。全国の私鉄は戦時統制の為、合併、整理され、金石電気鉄道と浅野川電鉄は北陸鉄道へ合併されることが決まった。しかし当時の浅野川電鉄の社長藍元義範は合併条件を不満として断固拒否した。しかし、戦争が終わった年の12月、浅野川電鉄は北陸鉄道に吸収合併される。当時の北陸鉄道の社長は12年前に遊園の競売で争った林屋亀次郎であった。

・戦後の遊園

 戦後も引き続き粟崎遊園は日本タイプライターの金沢工場として使用された。それに対して、涛々園は戦時中に不二越からさらに大阪軽合金の手に渡り、社員寮として使用され、戦後は再開の機運が高まり、大阪軽合金が社名を新日本産業と変更したのを機に1946年8月に復活開業した。 一方、粟崎遊園は1951年(昭和26年)になってオリンピック博覧会の第二会場敷地として利用される。一部には粟崎遊園を再開させようという機運もあったが、結果的に遊園の建物は1952年9月8日に売りに出された。本館の建物一部は私立藤花高等学校(現在は金沢龍谷高等学校)などに移設され、浴場のタイルなどは解体後に職人が保管し、その後内灘町に渡った。劇場にあったピアノは長らく金沢市民俗文化財展示館(金沢くらしの博物館)に保管されていた。

 涛々園も1951年頃には客入りが悪くなり、身売りされ、最終的に閉園、建物は売りに出された。涛々園の跡地は現在の金沢市立金石小学校となっている。

 粟崎遊園が解体されたのちの昭和25年、朝鮮半島で戦争が始まり、米軍の武器需要の高まりで日本国内に砲弾の試射場が必要とされ、内灘の砂丘がその候補地となり、激しい反基地闘争(内灘闘争)が始まった。

・遊園事業の実際

 粟崎遊園の事業は浅野川電鉄の経営報告書を見てもわかるように赤字が続いており、電鉄本体の旅客営業の黒字で補填していたようである。涛々園の方は経営報告書がまとまって資料として残っていないのではっきりとはわからないが、確認できている資料では若干の黒字か差し引きゼロの収支となっおり、こちらも経営は厳しかったのではないかと想像される。粟崎遊園は平澤嘉太郎の個人経営時代は本業の材木業の利益で穴埋めしていたのだろうと想像される。また、浅野川電鉄経営時代も終点に遊園があったからこそ電鉄の乗客数が増やせたのだろう。なによりも「金沢市民が楽しめる夢のパラダイス」を守り続けたいという創業者平澤の思いを引き継いでいたのだろうと思われる。

・戦後の金沢のレジャー施設

 北陸鉄道は戦後になると粟崎海岸にサンマーハウスを建て、昭和30年(1955年)には金名線の上野駅(現在は廃止、当時鳥越村内にあった)近くの手取川沿いに「手取遊園」を作った。風光明媚な渓谷のそばにキャンプ場や野外ステージ、当時最新鋭のアース・ウェイブやムーンロケットなどの大型遊具、石川県初の観覧車、近くには手取温泉もあった。ここは屋外レジャーを中心にした施設だった。

 内灘の闘争が米軍の撤収により収束した翌年の昭和33年(1958年)11月1日、松本由が卯辰山にヘルスセンターを開館させる。松本は戦前クリーニング店を営み、戦後に移動映画班をつくって北陸を回り、その後、ムービー菊水など映画館を開業させていた。ヘスルスセンターには大浴場や宿泊施設、専属の演芸舞踊団の舞台や、室内動物園や山頂水族館、遊具施設などがあり「家族連れで1日を遊べる、庶民的かつ健康的なヘルスセンター」をうたい文句にしていた。

 「卯辰山は神社、仏閣の山だから大資本を投じて商売をすれば罰が当たって必ず失敗する」と言う年寄りたちに対して松本由は「金もうけをする気持ちで建てるのではない。ただ市民の皆さんに1日を娯楽天国にいるような気持ちで楽しんでもらう場所を提供したい」という信念でヘルスセンターを建てたと語っている。その言葉は平沢嘉太郎が粟崎遊園を建てた時に語った言葉と重なる。

 手取遊園は金沢市内から遠く、市内にヘルスセンターが出来たこともあって徐々に客足が減り経営不振になり、昭和40年(1965年)に北陸交通社が北陸鉄道から買収して営業を続けた。しかし経営悪化のため昭和45年(1971年)に閉園した。ヘルスセンターは一時期大いに賑わい、ロープウェーも設置された。昭和57年 (1982年)に名称を金沢サニーランドと変更。しかし、入館者の減少や施設の老朽化、遊びの多様化など時代の変化には勝てず、平成5年(1993年)に35年の歴史に幕を閉じた。 

・テーマパークの登場と現代

 1983年(昭和58年)に東京ディズニーランドが開園する。アメリカのディズニーランドは既に1955年に開園していたが、統一された世界観の遊園地が日本で開業した事はその後の各地の遊園地に影響を与える。通称リゾート法と呼ばれる総合保養地域整備法が1987年に成立したことや好景気に乗って、世界各国の文化や特定の物語をテーマにしたテーマパークが日本各地で建設され、長崎オランダ村やサンリオピューロランド、石川県内ではユートピア加賀の里や加賀百万石時代村が造られ、1990年代後半にピークを迎える。しかし、1990年後半のバブル景気の崩壊によって、各地に乱立して飽和状態だったテーマパークは採算の甘さも相まって閉園が相次いだ。2000年代に入って遊園地はさらに淘汰され、東京のディズニーランドと大阪のユニバーサルスタジオが日本国内では圧倒的な集客率を誇る。

 2000年代以降のインターネットとスマートフォン、タブレットの急速な普及によって、映像やゲームはより身近な日常のものとなり、娯楽は個人中心の体験へと変化していきている。東京ディズニーランドや大阪のユニバーサルスタジオなどは常に新しい施設・技術を導入し、季節ごとのイベントを開催し来場者を常に飽きさせない工夫をしている。強力なキャラクターコンテンツやテーマを持っていない中小規模の遊園地は集客に苦労を重ねているが、能美市・手取フィッシュランドのように小規模ながらも地元に根付いた遊園地もいまだ各地に存在する。今はスマートフォンさえあれば飽きることなく様々なコンテンツを楽しめるが、やはり五感で感じる体験、家族や友人らと共有できる体験はいつの時代にも必要とされていると言えるのではないだろうか。

  現在では粟崎遊園のあった内灘、向粟崎は金沢市内のベットタウンとして開発され、本館跡地は住宅地となり、当時の面影を残すものはほとんど存在しない。かつての羽衣荘跡地に立つ平澤嘉太郎の碑がその痕跡をひっそりと伝えている。また、内灘町歴史民俗資料館「風と砂の館」に当時の資料、本館入口アーチが残されており、当時の記憶を残している。

※粟崎遊園の近現代史は自身の論考を元に加筆、訂正、再構成しています。