粟崎遊園と近現代史1

・江戸時代の金沢の繁栄

 金沢は江戸時代、加賀藩100万石の中心地として、江戸、大坂、京都に次ぐ都市として大いに栄えていた。長く続いた戦乱の世から太平となった江戸時代には京都など上方を中心に文化も栄え、歌舞伎が人気を博し金沢にもその影響は及んだ。金沢の外港であった宮腰(金石)や大野、粟崎では北前船による交易で日本中の文物が行き来しており、木谷藤右衛門や銭屋五兵衛など豪商が活躍した。その湊周辺には芝居小屋や御茶屋などの花街・遊郭が存在した。金沢市内では文政2年(1819)に福助座が建てられ、周辺は飲食店が立ち並ぶ歓楽街となった。風紀の乱れにより1838年に芝居小屋が禁止されるが、その後黙認され、犀川沿いに川上芝居、馬場芝居などの常設の芝居小屋が立ち賑わった。

 ・欧米列強の東アジア進出

 ヨーロッパ諸国は15世紀以降からの大航海時代を経て19世紀には本格的に東アジアまで活動範囲を広げてきた。それまでオランダ、清など限られた国としか交易を行っていなかった日本へも欧米諸国はしきりに開国への圧力をかけてきた。1853年(嘉永6年)のペリー来航後に江戸幕府は開国し、欧米諸国とも貿易を行うこととなった。日本は自給自足の社会から、世界的な経済システムに組み込まれ、政治的には欧米列強の植民地主義に晒されることになった。薩英戦争(1863年(文久3年)8月)、下関砲撃事件(1864年(元治元年)8月)や清国とイギリスとの間で起こったアヘン戦争(1840〜1842年)などによって西洋の強大な軍事力を見せつけられたことで、外国からの侵略に対抗するため日本は軍事の近代化を急ぐことになり、明治に入ると技術だけでなく経済、文化の面でも西洋化を急速に押し進めることになった。

・幕末から明治の金沢

 1867年(慶応3年)江戸幕府の開国の影響もあり、加賀藩14代藩主前田慶寧によって卯辰山の開発が始められた。卯辰山山麓に養生所や修学所、芝居小屋などの娯楽施設が整備され、大規模な文化、教育施設となり賑わった。もともと卯辰山は金沢城を見下ろす位置にあることから江戸時代は庶民の登山が禁止されていた場所であった。この卯辰山の施設は明治の初め頃までは栄えていたが、廃藩とももに急速に寂れていった。

金沢は明治に入ると政治、経済の中心から遠ざかり、他の都市と比べ発展が遅れていった。その要因としては、11代藩主前田斉泰による尊皇攘夷派の弾圧の影響や、他都市と比べて武士の比率が多かったため、武家文化を基盤にした工芸・美術・教育が強かったが、明治政府の政策は工業化であったので、紡績・製鉄・造船を主として太平洋沿岸の都市へ資本を集中させたことが大きかった。

・殖産興業と鉄道

 近代化のためには資金が必要であり、外貨会得のため日本は生絹、お茶などの商品を海外向けに大量生産した。軍事の近代化と国産化、教育機関の整備、国内産業育成が進むと、日本国内の産業構造はそれまでの時代から一変し、工業や建設業などの第二次産業の割合が増え、工場労働者、都市労働者が増加した。各地で生産される石炭や木材などの製品運搬や労働者輸送の効率化の一端として鉄道建設ブームが全国で起こった。1885年(明治18年)〜1890年(明治23年)頃に第一次鉄道ブームが起こり、民間資本によって列島各地に主要な幹線が建設された。これは政府が資金難で鉄道建設に予算を費やせなかったという理由があったが、防衛や経済力強化のため1906年(明治39年)に鉄道国有法によって当時の私鉄の9割ほどが国有となった。1900年(明治33年)〜1910年(明治43年)には第二次鉄道ブームが起こり、この時は主に大都市から近郊を結ぶ鉄道が多く建設された。

・西洋音楽・演劇の導入と実践

 文明開化とも言われた欧米の制度や文化の導入は、それまであった日本の風俗、文化にも大きな変化をもたらした。1883年に完成した鹿鳴館では欧米の外交官などを相手に西洋のダンス、音楽、風習をそのまま日本に持ち込み舞踏会が繰り広げられた。学校教育では唱歌が科目として採用され西洋音楽の導入が行われ、1907年(明治40年)には音楽が義務教育で必須の科目となる。

 演劇の分野では西洋の劇場建築、演技術、舞台装置が紹介されるが、依然人気があったのは歌舞伎や人形浄瑠璃であった。1888年(明治21年)以降からは角藤定憲による壮士芝居、川上音二郎によって書生芝居が始められ、歌舞伎(旧劇)に対して新派と呼ばれた。この新派は歌舞伎を母体にしてはいるが、西洋の写実主義、社会問題を取り入れた新しい演劇であり、文芸的・メロドラマ的・市井の悲劇が特徴であった。明治末から大正初めにかけてはさらに写実性の強い近代演劇が実践され、島村抱月・松井須磨子の「芸術座」、小山内薫・東儀鉄笛の「自由劇場」、小山内薫・土方与志の「築地小劇場」が生まれ、新劇と呼ばれた。

 日本にオペラを根付かせようと1912年(明治45年・大正元年)東京・帝国劇場歌部にジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシーが招かれた。しかし、当時の日本人にはオペラは受け入れられにくかったため、不評と収益の問題から4年後に歌劇部は解散してしまう。ローシーや日本人の教え子たちはその後もオペラ公演を諦めず、様々な形で上演を繰り返した。1917年(大正6年)頃になると田谷力三、原信子、清水金太郎、石井漠らの日本人音楽家・舞踏家たちによって日本語化されたオペラが浅草で上演され、チケット代の安さもあり庶民に熱狂的に受け入れられた。ファンはペラゴロと呼ばれ、ひいきの歌手を巡って騒動も起こるほどであった。この浅草の劇場を中心に行わた日本化したオペラは浅草オペラと呼ばれた。この浅草オペラで活躍した岸田辰彌は後の宝塚歌劇団の基礎を形作ることになる。

・私鉄文化

 第二次鉄道ブーム時代に建設された箕面有馬電気鉄道の小林一三は鉄道利用者を増やすため、沿線の開発を進めた。沿線の土地・住宅開発や温泉・遊園地の開設、百貨店の開業など様々なアイデアを実践し、他の私鉄からも経営モデルとみなされた。関東、関西の各鉄道会社はこぞって自社の沿線に娯楽施設などを建設し自社の鉄道利用者を増やす戦略を模倣した。この時期に日本ではサラリーマン層が誕生し、週末の休日に郊外の行楽地へ観光や、百貨店に行くという文化が生まれた。終点に集客できる施設を建設するというのはアメリカの郊外鉄道(インターアーバン)でも行われており、代表的なものにシカゴのルイン・パーク、ニューヨークのコニー・アイランドがある。

 小林一三が宝塚新温泉で始めた「宝塚歌劇団」によるレヴューは評判となり、全国各地に少女歌劇団として波及していった。経営主体もそれぞれで、松竹をはじめ、遊園地、温泉、料亭、カフェー、百貨店を母体とした団体も現れ、1920年(大正9年)頃以降、様々なところで公演が行われていた。少女歌劇のアイデアは小林一三が三越百貨店の少年音楽隊を観て閃いたとされている。

・遊園地の歴史

 ところで、遊園についての前提知識として遊園地の歴史について触れる。近代的な遊園地のルーツのひとつは、17世紀から18世紀にかけてヨーロッパで流行した「プレジャー・ガーデン(ティー・ガーデン)」であるとされている。ロンドンのヴォクソール・ガーデンズなどが代表例で、当初は貴族や富裕層が散策や音楽、花火を楽しむ社交の場であったが、次第に庶民にも開放され、ブランコや簡単な遊具も置かれるようになった。

 機械遊具のある遊園地の始まりは1895年以降にニューヨークのコニーアイランドに開園した3つの施設とされている。シー・ライオン・パーク(のちのルナ・パーク)、スティープルチェイスパーク、ドリームランドである。世界初の本格的なジェットコースターや機械仕掛けの回転木馬などの機械遊具のある現代の遊園地と同じスタイルが確立された。

 日本での遊園地の始まりは幕末の1853年(嘉永6年)に東京・浅草で開園した誕生した「花屋敷」に遡る。ここは造園師であった森田六三郎が牡丹と菊細工を主とした植物園であったが、明治に入ると遊具が置かれ、動物展示や見世物も行われるようになった。1903年(明治36年)に開催された「内国勧業博覧会」(大阪・今宮)では日本初のウォーターシュートやメリーゴーランド、パノラマ世界一周館、不思議館、大曲馬など娯楽施設が登場し、これらの機械遊具、装置は当時の人々に大きな衝撃を与えた。1907年の東京勧業博覧会では日本で初めて観覧車が登場した。大阪・枚方では1912年に香里園(枚方パーク)、1914年に横浜・鶴見では花月園が開業、以降日本各地に遊園地が造られる。また、1903年(明治36年)に東京日本橋白木屋呉服店の中にシーソーや木馬などを置いた遊具室が開設される。1931年(昭和6年)には東京・浅草の松屋デパートの屋上に遊具が設置され、屋上遊園地の始まりとされる。

・モダン金沢

 金沢市は明治に入っても近代化の波に遅れていた。1898年(明治31年)陸軍第九師団が金沢城に置かれ、同年に北陸本線金沢駅の開業する。1919年(大正8年)には市内を走る路面電車も開通し、文化面でも映画館やダンスホール、カフヱー、デパートの開業など、新しい文化が入ってきた。大正から昭和初期にかけてのこのモダン時代では市内に洋風建築も建てられ、徐々に文化が洋風に変化しつつあったが、市内の劇場では地役者による歌舞伎や浪曲会などもまだまだ根強い人気があった。