
本名は邑井武雄、村井武生はペンネームで、邑井芳郎と言う名前も使っていた。1904年(明治37年)石川県石川郡美川町生まれ、幼少期に一家で金沢に移る。次第に武生は文学に興味を持つようになり、詩歌誌「成長する魂」の創刊し、「金沢詩人会」を結成。室生犀星、木山捷平など多くの詩人と交流する。能美郡宮竹小学校の代用教員なっていた時期があり、当時、ビロードの服を着てステッキを手に道らしい道のない手取川沿いを美川町から宮竹まで歩いていと言われる。
一時期、東京・雑司が谷に住む。大正期から始まった郷土玩具ブームの影響を受け、1929年(昭和4年)村井武生は舞台装置家の吉田謙吉、彫刻家の浅野孟府らと共に佐藤春夫を所長とするL・L・L玩具製作所を東京で創設。芸術的な玩具の研究製作とその運動を始め、各地の三越や高島屋などで展示を行い好評を博すが財政難となり解散。その後大阪に転居して人形劇の活動を始める。鞍信一と交友があり、鞍は村井の童話劇人形の製作の手伝いに大阪に行っていた時期もある。
1931年(昭和6年)に南江二郎、小松栄、平井房人、村井武生の四人で宝塚人形劇場を興し、小劇場で白井鐡造の「ジャックと豆の木」を上演。宝塚歌劇生徒と音楽団の助演を得て大好評を得る。その後、1934年(昭和9年)に粟崎遊園に呼ばれ、脚本舞台監督として活動。1940年(昭和15年)に北国新聞の記者となるが、その年の12月には太原新聞編集局員となり中国大陸へ渡る。終戦後、1946年(昭和21年)帰国前に北京にて客死。
主な著作/詩集「樹蔭の椅子」、詩集「着物」、「応用と明日の手工芸」
