金沢の材木商。
1864年(元治元年)生まれ。農家の三男として生まれたが、金沢市材木町の平澤家に養子となった。
日本各地を見聞し、最新式の機材を導入し、自身の材木問屋を大きくしていった。
現在の金沢駅前、JRと北鉄浅野川駅の間の敷地に広大な工場を持っていた。 その時の名残か、ある時期までこの場所を平沢と呼んだこともあるようである。(「写真と地図で見る 金沢のいまむかし」 p.39)
また、金沢の運輸業者をまとめ、金澤合同運輸株式会社を設立するなどした。
材木の取引量が増えると輸送の合理化にも着手し、浅野川沿いに金沢と河北潟を結ぶ浅野川電気鉄道を敷設。社長に就任する。小林一三にならい浅野川線の終点に「市民の別荘」となる遊園地を自費で砂丘の地、粟崎に建設する。
平澤は「何事も家族的に」をモットーとしていて関係する諸事業の従業員に対して家族的に接していた。また、火災で焼けた寺社に多額の寄進をするなどした。
晩年は本業で失敗し、事業を縮小し遊園内の羽衣荘にこもる。
昭和7年動脈硬化で療養中だったが、川上一郎のなくなった3日後に亡くなった。