前へ
 
 

2. 遊園のはじまり

金沢近郊では1898年(明治31年)に金石と金沢を結ぶ馬車鉄道が開通、その後電化され金石電気鉄道となった。粟崎と金沢を結ぶ浅野川電気鉄道は1924年(大正13年)に材木商の平澤嘉太郎を中心とした地元資本によって開通した。その開通と並行して平澤嘉太郎は個人事業として翌1925年大正14年)に浅野川電気鉄道の終点となる向粟ヶ崎の6万坪の土地(現在の内灘町)に当時の金額で35万円をかけて粟崎遊園を建設した。

 

粟崎遊園は温泉、食堂、劇場、貸室、動物園、遊具施設、野球場などがある一大レシャー施設で、敷地面積は兼六園の2倍。1928年(昭和3年)に川上一郎を座長とする劇団「粟崎大衆座」と少女歌劇団が発足。粟崎遊園の舞台は大衆演劇と少女歌劇が併立し、新派喜劇、軽演劇、コント芝居、レヴューなどが連続して上演された。初めはそれぞれが別々な演目で交互に上演していたが、やがて少女歌劇の中に大衆演劇が入り込んだり、合同で演目を行ったり、互いに影響を受け合っていたようである。当時のパンフレットの配役表を見ると夏の踊りや秋の踊りに男性が入っていたり、逆に喜歌劇と銘打った演目にレヴューの子が出ていたりして興味深い。

夏は海水浴場が開かれ、冬場は遊園自体が閉園となるが、劇場を開放し金沢市内の劇団が公演を行っている。また砂丘の地形を利用したスキー場もあった。

 

金石電気鉄道も浅野川電気鉄道に対抗し、金石に涛々園を建設した。こちらにも温泉、潮湯、食堂、貸室、旅館、動物園、劇場、写真館などがあった。涛々園には座付きの劇団はなかったとされているが、当時の涛々園のパンフレットを見ると昭和7年には銭屋五兵衛劇団が常時公演を行なっていたようである。

 

一方、近隣の県でも鉄道とレジャー施設のセットでの建設が多かった。富山県では1922年(大正11年)の富山県営鉄道開通に伴い当時の上滝町(現富山市)が大川寺山にスキー場を整備したのをはじめ、公園、展望台、ゴルフ場などが次々に整備されていった。同じく富山の越中鉄道は八ヶ山遊園(現在の富山市八ヶ山、呉羽山公園八ヶ山広場)として1929年(昭和4年)に呉羽山の斜面を利用したスキー場を開設し、運動広場や動物園などが整備された。氷見では中越鉄道が島尾遊園を開設。ここは海水浴場や温泉、演芸場や旅館などもあったようである。

福井県では越前電気鉄道の沿線、小舟渡に京都電灯が小舟渡遊園を開設、動物園や温泉があったようである。

また、福井市内では1931年(昭和6年)にだるまや百貨店が少女歌劇部を設立し、百貨店内の劇場を中心に活動を始めた。坪川は、だるま屋の経営理念として「教育の商業化」、「教育の生活化」を掲げた。だるま屋の幹部はすべて教員出身者で、子供むけに「コドモの国」を開設し、「だるま屋少女歌劇」も設立した。たんなる百貨店経営ではなく、地域の文化活動に大いに貢献したのである。(福井市『わがまち福井』)

 

金沢市内には明治から昭和初期にかけては福助座や稲荷座などいくつも劇場があり、江戸時代からの流れを組む歌舞伎が上演されていたが、映画の流行の影響など時代と共に徐々に歌舞伎の人気が落ち、1925年(大正14年)金沢の地役者・嵐冠十郎の死後を境に、劇場はダンスホールや映画館専門館に改築される所が多かった。のちに粟崎遊園の演目も大衆演劇から新劇・レビューへとレパートリーの重心は移っていく。

 

粟崎遊園では1929年(昭和4年)1月7日に不審火による火災で劇場、旅館、貸室、倉庫が燃えたが直ぐに復旧が図られた。原因は放火だとされている。金沢市がまとめた「金沢の百年 大正・昭和編」によると同日金沢市内のビリヤード場が、同月14日草花店が、22日に八百屋から出火しているので、偶然集中しているにしては気になるところである。再建された施設、劇場は焼失前の倍以上の大きさとなったが、急ピッチで立て直したので以前のものよりよくない、バラックのようだったとの評判もあった。

 

1931年(昭和6年)9月に香林坊に大阪資本のカフェー美人座とカフェー赤玉がほぼ同時期に開店した。当時で言うカフェーは美人女給がお酒を出す場所、今でいうとメイド喫茶に近いのであろうか。両者は市内でビラまき、ちんどん屋などによる宣伝合戦を大々的に繰り広げたので、広坂署は取り締まりを直ぐに強化した。

第二菊水倶楽部の鞍新一は新劇運動に参加し、市内の他の劇団と共に粟崎遊園の劇場で上演を行なったりしていた。また、彼はタウン誌「モダン金沢」を発行、最新の映画情報や遊園に出演する俳優たちのゴシップなどを掲載していた。粟崎遊園の楽屋にもよく出入りしていたようである。

 

1932年(昭和7年)、金沢市内で「観光と産業の大博覧会」が主に金沢城を中心に開催された。その賑わいがある中、川上一郎が倒れ、彼の死後3日後に平澤嘉太郎も川上の後を追うように亡くなった。遊園の経営は一時期、浅野川電鉄の専務東耕三が引き継ぐことになった。

 

次へ

3. 遊園のにぎわい