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5. 遊園の残像、新たな時代

北陸鉄道は昭和30年(1955年)に金名線の上野駅(現在は廃止、当時の鳥越村内にあった)近くの手取川沿いに新しい遊園地を作った。風光明媚な渓谷のそばにキャンプ場や野外ステージ、当時最新鋭のアース・ウェイブやムーンロケットなどの大型遊具、石川県初の観覧車、近くには手取温泉もあった。ここは屋外レジャーを中心にした施設だった。

 

また、内灘の闘争が米軍の撤収により収束した翌年の昭和33年(1958年)11月1日、松本由が卯辰山にヘルスセンターを開館させる。

彼は戦前クリーニング店を営み、戦後に移動映画班をつくって北陸を回り、その後、ムービー菊水など映画館を開業させていた。

ヘスルスセンターには大浴場や宿泊施設、専属の演芸舞踊団の舞台や、室内動物園や山頂水族館、遊具施設などがあり「家族連れで1日を遊べる、庶民的かつ健康的なヘルスセンター」をうたい文句にしていた。

「卯辰山は神社、仏閣の山だから大資本を投じて商売をすれば罰が当たって必ず失敗する」と言う年寄りたちに対して松本由は「金もうけをする気持ちで建てるのではない。ただ市民の皆さんに1日を娯楽天国にいるような気持ちで楽しんでもらう場所を提供したい」という信念でヘルスセンターを建てたと語っている。(「私の体験」(読売新聞北陸支社編/p.334 ))

その言葉は平沢嘉太郎が粟崎遊園を建てた時に語った言葉に似ている。

 

手取遊園は金沢市内から遠く、市内にヘルスセンターが出来たこともあって徐々に客足が減り経営不振になり、昭和40年(1965年)に北陸交通社が北陸鉄道から買収して営業を続けた。しかし経営悪化のため昭和45年(1971年)に閉園した。

 

ヘルスセンターは一時期大いに賑わい、ロープウェーも設置された。昭和57年 (1982年)に名称を金沢サニーランドと変更。しかし、入館者の減少や施設の老朽化、遊びの多様化など時代の変化には勝てず、平成5年(1993年)に35年の歴史に幕を閉じた。

卯辰山にヘルスセンターはなくなったが、今も工芸工房や健康交流センター、運動場などがある。

 

ヘルスセンターと同じように、戦後一時期は日本各地で遊園地や娯楽施設の開園ラッシュを迎え、1990年前後のバブル時代にピークを迎えるが、TVやゲームの普及、娯楽の多様化により、飽和状態にあったレジャー施設は淘汰され、閉園が相次いだ。現在ではインターネット、スマートフォンの普及、仮想現実のVRやMR技術の登場で、大勢で楽しむものだった娯楽が個人中心の体験へと変化していきている。

東京ディズニーランドや大阪のユニバーサルスタジオなどは常に新しい施設・技術を導入し、季節ごとのイベントを開催し来場者を常に飽きさせない工夫をしている。しかしながら、釣り堀からはじまって遊具が充実した能美市の手取フィッシュランドのように小規模ながら地元に根付いた遊園地もいまだ各地に存在する。

今はスマートフォンがあればいつでもどこでも映画などの映像やゲームなどを楽しめる時代になってきているが、やはり五感で感じる体験、家族や友達と共有できる体験はいつの時代にも必要とされているのではないだろうか。

 

粟崎遊園のあった内灘、向粟崎は金沢市内のベットタウンとして開発され、本館跡地は住宅地となり、今現地で当時の面影を残すものはない。かつての羽衣荘跡地に立つ平澤嘉太郎の碑がその痕跡を伝えている。また、内灘町歴史民俗資料館「風と砂の館」に当時の資料、本館入口アーチが残されており、当時の面影をわずかに伝えている。

 

 

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